卒業論文

 本学は全学部全学科で卒業論文を必修としています。今年度、日本文学科の卒業論文提出締切は12月19日(木)でした。就職活動と並行しながら卒業論文をまとめるのはとても大変なことだと思いますが、研究対象と本気で向き合い、悩み、自分なりの結論を導き出していく経験は必ずや今後の人生に活かされるはずです。4年生の皆さん、本当にお疲れ様でした。
 卒業論文を書いた人たちの率直な感想は随時学科のfacebookページにアップしていますが、中世ゼミのOさんが送ってくれた感想はかなりのボリュームで読み応えがありますので、当ブログのエントリーとしてアップしておきます。「日本文学なんて就職に役に立たないし」「卒論書く時間が勿体ない」なんてとんでもない勘違いだということがよくわかるはずです。是非ご一読を。

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   卒論を書く意義―卒論と清輔と私―

 先日、ようやく数万字に及ぶ卒業論文を書き上げ、今はすべてから解放された心持でいます。私は卒業論文を書いて、色々と得るものがありました。
 私が取り上げたのは藤原清輔という平安後期の歌人で、世間では超が付くほどマイナーな人物です。大概の人からは、ごめん知らないで一蹴されます。
 なぜ、誰だコレ?な歌人を私が取り上げたかというと、かの有名な『小倉百人一首』に清輔の歌があって、その歌に心を射抜かれたからです。「ながらへば又此のごろやしのばれんうしとみし世ぞ今はこひしき」という歌は私の人生でのつらい時、苦しい時に寄り添ってくれた歌です。(歌の意味はグーグル先生にお尋ねください。)

 そして、ひょんなことから私は、大学生になって普通の人より百人一首と関わることが多くなり、清輔への愛着が増していったのです。3年生になって、卒業論文で何をやろうかと考え始め、近世文学でもやろうかしらと漠然と思っていたものの、いざテーマを決めるとなると何も浮かばない。そこで、じゃあ近世文学は関係なくなるけれど、大好きな清輔をやるかと思い立った訳です。実際、清輔の研究は盛んであるとは言い難く、まだまだ開拓の余地はありました。何より、不遇な人生を送った清輔に一瞬でもスポットライトを当てたい気持ちがあったのです。

 結果から言うと非常に良かったです。私は大好きな「ながらへば」の歌のような、清輔の出世できないだの人生つらいだのというジャンルの歌を題材にしました。やはり好きなものを極めようというのは楽しいです。卒業論文は、今まで学んできたことの集大成でもある訳ですが、自分の血となり肉となった知識や技術を好きなものにぶつけることで、自身の能力が最大限に発揮されるのだと思います。

 正直なところ、思うように論文が見つからないとイライラ、論文読んでも頭に入らないとさらにイライラ、演習発表のレジュメがまとまらないと夜中に床にころがってイライラ、あげく睡眠不足でクラクラ…と散々な状態になります。考えたことが上手くまとまらない、キーボードを叩く速度が考えることに追いつかない、どう考察したら良いか分からない、など色々な壁にぶつかります。

 でも、そこで無理やりにでも考えることで忍耐が身に付きます。見聞きしたことをまとめ適切に引き出そうとする力が身に付きます。言葉の使い方や文法を見直して、正しい日本語を遣う能力が身に付きます。それが卒業論文を書く意義でもあり、書いて良かったと思う一端でもあるのです。最近は卒業論文を書かない学校もあるようですし、卒業論文を書くことの意味自体が問われてもいるようです。確かに、学生だって卒業論文が無い方が楽です。好きで何万字も書きたい人はそうそういないです。また、昨今のお歴々や意識の高い学生様は、そんなことよりボランティアを、就職に役立つ資格を、海外留学でグローバルな人材を云々と申している風潮があります。卒業論文はおろか、大学で学ぶ学問も就職に直結させるべきという雰囲気があります。特に日本文学の地位は非常に危ういです。親からも「就職に役立たない」、面接で役員からも「直接的に何に結び付くの?」と色々言われました。私からすると、そういう輩には片っ端からウエスタンラリアットかましたい気分です。まず学生の本分は勉強だろうがと言いたいです。すべての基本は国語だろうがと言いたいです。

 課外活動に力を入れることは否定しません。むしろ素晴らしいです。しかし、4年間で学んだ学問について説明のできない人に学士を名乗る資格があるでしょうか。大学で学んだと言えるでしょうか。自分なりにつきつめて考えて、無い知恵を絞り出して、そしてそれをまとめる作業が必要だと思います。私たちはこれから社会に出て、多くの人と接しなければなりません。小難しい論文を読みこなす作業は、関心の向かない人の話でもしっかり聞いて理解するための練習です。人の考えや調べたことから自分の意見をまとめ作り上げる作業は、筋道立てて考えるための練習です。演習発表のレジュメを作る作業やそこでプレゼンすることは、相手に説得力を持って分かりやすく伝える練習です。卒業論文は、これからの自分に必要な要素がたくさん詰まっていると思うのです。特に日本文学においては、その傾向は強いように思います。

 また、少なくとも私は、ファッションにわか清輔オタクから、清輔オタクくらいには昇格できたと思います。そして、それが卒業論文を書いて良かったことだと思います。研究することがなければ、ただ何となく好きというレベルで終わっていたものが、きちんと形に残し論文という形式で文字化することによって、今まで知らなかったことを知り、説得力をもって人に伝えることができるようになりました。上っ面の知識教養ではなく、学術的に清輔を語れるようになりました。もちろん、私は研究者ではありませんので、取りこぼしはたくさんあるでしょうし、間違った部分も多々あるかと思います。それでも、かつての自分よりは薄皮一枚くらいむけたはずです。そして清輔という人物に少しだけ光を当てられた気がします。

 現に、ゼミの中でも研究テーマを通して交流を持つことができたように思います。私も他の学生の研究テーマから新しい知識を得て、きっとこのまま生きていたら知る由もなかっただろうということをたくさん吸収できました。卒業論文を書く作業は一見、研究対象と自分が向き合うだけの狭い世界かと思われますが、人とのコミュニケーションを図ることに繋がると思います。4年生の11月〜12月ともなると、「卒論ヤバいよ」が「Hello! How are you?」くらいの意味をなし、お互い情報交換をし合い、意見を言い合い論文を仕上げていく様は、まさに某少年漫画誌風の「努力・友情・勝利」といったところです。

 長々と綴りましたが、卒業論文を書くのは決して無駄なことではありません。卒業論文とどのように向き合うのか、その人自身の取り組み方や態度に左右されるところはあると思いますが、自分の大学生活のすべてを注ぎ込む価値はあります。だからこそ、忌み嫌わないで書いてみて欲しいと思います。