倉田(岩淵)宏子先生講演会「フェミニズム批評/ジェンダー批評との出会い」

 日本文学科教授・倉田(岩淵)宏子先生は、ご定年により本年3月末日を以て本学教授をご退任になります。先生は、平成3(1991)年4月に本学にご着任になられ、以来23年間の長きにわたって、日本文学科の近現代文学担当教授として、そして女性文学研究者として、多くの学生の教育および研究者の育成にお骨折りくださいました。また、日本文学科長・日本文学専攻主任・総合研究所長・生涯学習センター所長・文学研究科委員長・理事・評議員等の要職を歴任され、本学および本学科の発展に多大な貢献をしてこられましたことは改めて申し上げるまでもありません。
 私どもは、こうした先生の献身的なご尽力に対し、心からなる感謝と惜別の気持ちを込めて、ご講演会を企画いたしました。つきましては、以下の要領にて開催いたしますので、みなさま万障お繰り合わせの上、ご参加くださいますようお願い申し上げます。  

日時 平成26(2014)年3月15日(土)
講演会 「フェミニズム批評/ジェンダー批評との出会い」
会場  日本女子大学目白キャンパス新泉山館 国際交流センター大会議室
時間  14:00〜15:30
会費  無料・申し込み不要
問い合わせ先 日本文学科中央研究室 03-5981-3522

平成25年度卒業論文発表会



 昨日2月6日に平成25年度日本文学科卒業論文発表会が、百年館206教室にて開催されました。この卒業論文発表会は、優秀な卒業論文を書いた4年生が後輩の前でその成果を発表するもので、古典文学(上代・中古・中世・近世)、近代文学、日本語学、日本語教育学、漢文学、図書館学それぞれのゼミから1名から3名が選ばれます。3年生は自分が4月から所属するゼミの発表がある部の全発表を聞き、レポートを提出することになっています。
 今年度は午前の部が漢文学と古典文学、午後の部が図書館学、近代文学、日本語学、そして日本語教育学という形で進行しました。


 昼休みには4年生全員の卒業論文が展示されています。

 3年生にとっては、いよいよ4年生として卒業論文に取り掛からなければならないと気を引き締めることになったと思います。発表いただいた4年生のみなさんは本当にお疲れ様でした。

博士論文公開審査会

日本文学専攻では、下記のとおり文学研究科日本文学専攻博士論文公開審査会を開催いたします。どなたでもご自由にお聴きいただけますので、みなさま奮ってご参加下さい。

学術交流企画 シンポジウム「定家のもたらしたもの―継承と変容―」

 3月22日(土)14:00より、日本文学科ならびに日本文学専攻では、日本女子大学文学部・文学研究科学術交流企画 シンポジウム「定家のもたらしたもの―継承と変容―」を開催いたします。

 近年、漫画の『うた恋い。』人気のおかげで『百人一首』への関心が高まり、その編者である藤原定家も一躍時の人となりました。
 定家は本歌取や本説取という「詞は古きをしたひ、心は新しきを求め」(『近代秀歌』)る詠みぶりによって、物語性・演劇性の強い幽玄な和歌の世界を確立したことで知られますが、その後、歌人として神格化されるようになると、彼にまつわるエピソードがまことしやかに語られはじめ、室町時代には定家伝説に取材した能も作られていきます。
 一方、彼の和歌は勿論、歌論における言説までもが中世文芸の世界に影響を及ぼしていきます。定家を尊崇し定家に私淑した室町時代の歌僧正徹は夢幻的・象徴的とも評される独自の歌境を切り拓くに至りました。また、その正徹と交流のあった能役者金春禅竹もまた定家に深く傾倒し、定家と式子内親王をめぐるゴシップに取材した能〈定家〉を作るのみならず、『源氏物語』や『伊勢物語』の世界を背景に持つ和歌を詞章に多く採り入れ、本説となる古典文学作品を大幅に換骨奪胎して二次創作的な能の世界を展開させます。このように、定家の世界はさまざまな形に継承され、変容を遂げてゆくのです。

 和歌文学研究者に海外の古典文学研究者、能の実技者をも交えたさまざまな視座からのアプローチによって、中世文芸の世界に定家がもたらしたものが見えてくるはずです。みなさま奮ってご参会下さい。  

日時:平成26年3月22日(土)14:00〜18:00(終了予定)
場所:日本女子大学 目白キャンパス新泉山館
     国際交流センター大会議室
入場無料・予約不要
パネリスト

コーディネイター

    
    

卒業論文(感想その2)

 中世ゼミのNさんも感想を送ってくれました。こちらも先のOさん同様ボリュームのあるものですので、当ブログにアップします。彼女も書いてくれているように、卒業論文のヒントは至るところに転がっています。みなさんも攻めの姿勢で貪欲にキャッチしていきましょう!

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   卒業論文を終えて

 卒業論文を提出して、はや一週間が経ちました。提出した直後は、解放感と達成感でいっぱいでしたが、今は少しばかり寂しさも感じます。

 私が卒論で扱った題材は、「能」でした。二年生の五月に初めて観た〈善知鳥〉という作品にこんな舞台芸術があるのか!なんだかよくわからないけどスゴイ!と感動し、何に自分がそれほど感動したのかを知りたく、能楽堂に足を運ぶようになりました。そして、二年生の十二月、〈松風〉という作品を国立能楽堂で観て、またしても感動しました。そして、私はその感動を自分自身の中で分析したい、誰かと共有したいと思い、卒論の題材に決めました。

 正直に言って、ぎりぎりまでかなりの迷走を繰り返しました。私が感覚として「スゴイ!」「おもしろい!」と感じたことは、いったい何なのか、何に焦点を当てるべきなのか、ということにも悩みましたし、どんな方法で、いかに論理的に、説得力のある文章を組み立てていくか、ということにもとても悩まされました。悩みはしましたが、辛い・苦しいと思うことはほとんどありませんでした。むしろ、楽しい・もっと知りたいと思うことばかりで、提出期限が近づくにつれて、もっともっと書きたいことがあるのに、調べたい事柄があるのに時間がない!となってしまっていました。
 「卒論どう?」と友人たちに聞かれ、「ヤバイ!でも楽しい!」と答える私は、なかなかの変人扱いを受けましたが、本当に楽しかったと今でも心から思います。私が、「卒論は楽しい」と心から思える理由を少しばかり説明したいと思います。

 第一に、自分で自由に選んだテーマで書けるということです。卒論は、自分の興味があるテーマを選べば良いのです。確かに卒論そのものは必修ですが、卒論の論題は誰に強制されることもない、自由なものなのです。今まで履修した授業、今まで見聞きしたこと、今まで経験したこと、自分自身が不思議に思うことや知りたいと思うことを調べ、自分を納得させる結論に導くというのは、とてもやりがいがあることです。
 第二に、卒論を通じて、新しい知識に出会えるということです。これは私の性格が好奇心旺盛で、何にでも興味を持ってしまうということのせいかもしれませんが、他学科や他大学の友人が多くいます。その友人たちと、「卒論なにやってるの?」という会話の中で、英文学をはじめとした海外文学や演劇、歴史学、哲学、論理学、心理学といったさまざまな新しい視点を与えてもらいました。
 もちろん専門家である指導教官から、真剣に真正面からアドバイスもいただけますし、ゼミの友人たちの指摘から、自分だけでは考えもしなかった可能性を見出すこともあります。
 私は、卒論は決して一人で書くものではないと思います。自分で自由に選んだ題材が、誰かの興味と重なり、新しい突破口が見えてくることも多々ありました。常にアンテナを張り、人との会話の中で、ヒントを見つけていくのは宝探しでもしているような気分です。

 最近では、卒論が必修ではないという大学も多いと聞きます。しかし、私はぜひ卒論を書くという選択を一人でも多くの人にしてほしいと思います。
たった22年の私の人生ですが、いろいろと「選択」をしてきたと思います。例えば高校受験、例えば大学受験、上京、例えば就職活動。それは誰かの影響だったり、誰かのためだったりということがほとんどでしたが、一つも後悔はしていません。後悔していない理由は、自分自身で「選択」したことだからに尽きると思います。
 卒論は自分自身で「選択」した題材について、真正面からぶつかっていくことができる大切な機会です。しかも周囲の教授や友人たちは、誰一人として卒論が失敗すればいいのになんて思うことなく、応援してくれます。そのような大切な機会を放棄するなんて、とてもとても、もったいないことなのではないかと思います。
 私は、卒論を書いてみて、本当に楽しかったと思いますし、自分自身の勉強不足や反省点も見つかりました。また、周囲の人々にとても恵まれていることも改めて実感しました。卒論を書き終えてからは、もっと学びたいという意欲が自分の中にあったことにも気付き、少しばかり驚いていたりもします。私は、卒論を書いたというこの経験が、今後において決して無駄なことではなかったとずっと思い続けるだろうと確信しています。

卒業論文

 本学は全学部全学科で卒業論文を必修としています。今年度、日本文学科の卒業論文提出締切は12月19日(木)でした。就職活動と並行しながら卒業論文をまとめるのはとても大変なことだと思いますが、研究対象と本気で向き合い、悩み、自分なりの結論を導き出していく経験は必ずや今後の人生に活かされるはずです。4年生の皆さん、本当にお疲れ様でした。
 卒業論文を書いた人たちの率直な感想は随時学科のfacebookページにアップしていますが、中世ゼミのOさんが送ってくれた感想はかなりのボリュームで読み応えがありますので、当ブログのエントリーとしてアップしておきます。「日本文学なんて就職に役に立たないし」「卒論書く時間が勿体ない」なんてとんでもない勘違いだということがよくわかるはずです。是非ご一読を。

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   卒論を書く意義―卒論と清輔と私―

 先日、ようやく数万字に及ぶ卒業論文を書き上げ、今はすべてから解放された心持でいます。私は卒業論文を書いて、色々と得るものがありました。
 私が取り上げたのは藤原清輔という平安後期の歌人で、世間では超が付くほどマイナーな人物です。大概の人からは、ごめん知らないで一蹴されます。
 なぜ、誰だコレ?な歌人を私が取り上げたかというと、かの有名な『小倉百人一首』に清輔の歌があって、その歌に心を射抜かれたからです。「ながらへば又此のごろやしのばれんうしとみし世ぞ今はこひしき」という歌は私の人生でのつらい時、苦しい時に寄り添ってくれた歌です。(歌の意味はグーグル先生にお尋ねください。)

 そして、ひょんなことから私は、大学生になって普通の人より百人一首と関わることが多くなり、清輔への愛着が増していったのです。3年生になって、卒業論文で何をやろうかと考え始め、近世文学でもやろうかしらと漠然と思っていたものの、いざテーマを決めるとなると何も浮かばない。そこで、じゃあ近世文学は関係なくなるけれど、大好きな清輔をやるかと思い立った訳です。実際、清輔の研究は盛んであるとは言い難く、まだまだ開拓の余地はありました。何より、不遇な人生を送った清輔に一瞬でもスポットライトを当てたい気持ちがあったのです。

 結果から言うと非常に良かったです。私は大好きな「ながらへば」の歌のような、清輔の出世できないだの人生つらいだのというジャンルの歌を題材にしました。やはり好きなものを極めようというのは楽しいです。卒業論文は、今まで学んできたことの集大成でもある訳ですが、自分の血となり肉となった知識や技術を好きなものにぶつけることで、自身の能力が最大限に発揮されるのだと思います。

 正直なところ、思うように論文が見つからないとイライラ、論文読んでも頭に入らないとさらにイライラ、演習発表のレジュメがまとまらないと夜中に床にころがってイライラ、あげく睡眠不足でクラクラ…と散々な状態になります。考えたことが上手くまとまらない、キーボードを叩く速度が考えることに追いつかない、どう考察したら良いか分からない、など色々な壁にぶつかります。

 でも、そこで無理やりにでも考えることで忍耐が身に付きます。見聞きしたことをまとめ適切に引き出そうとする力が身に付きます。言葉の使い方や文法を見直して、正しい日本語を遣う能力が身に付きます。それが卒業論文を書く意義でもあり、書いて良かったと思う一端でもあるのです。最近は卒業論文を書かない学校もあるようですし、卒業論文を書くことの意味自体が問われてもいるようです。確かに、学生だって卒業論文が無い方が楽です。好きで何万字も書きたい人はそうそういないです。また、昨今のお歴々や意識の高い学生様は、そんなことよりボランティアを、就職に役立つ資格を、海外留学でグローバルな人材を云々と申している風潮があります。卒業論文はおろか、大学で学ぶ学問も就職に直結させるべきという雰囲気があります。特に日本文学の地位は非常に危ういです。親からも「就職に役立たない」、面接で役員からも「直接的に何に結び付くの?」と色々言われました。私からすると、そういう輩には片っ端からウエスタンラリアットかましたい気分です。まず学生の本分は勉強だろうがと言いたいです。すべての基本は国語だろうがと言いたいです。

 課外活動に力を入れることは否定しません。むしろ素晴らしいです。しかし、4年間で学んだ学問について説明のできない人に学士を名乗る資格があるでしょうか。大学で学んだと言えるでしょうか。自分なりにつきつめて考えて、無い知恵を絞り出して、そしてそれをまとめる作業が必要だと思います。私たちはこれから社会に出て、多くの人と接しなければなりません。小難しい論文を読みこなす作業は、関心の向かない人の話でもしっかり聞いて理解するための練習です。人の考えや調べたことから自分の意見をまとめ作り上げる作業は、筋道立てて考えるための練習です。演習発表のレジュメを作る作業やそこでプレゼンすることは、相手に説得力を持って分かりやすく伝える練習です。卒業論文は、これからの自分に必要な要素がたくさん詰まっていると思うのです。特に日本文学においては、その傾向は強いように思います。

 また、少なくとも私は、ファッションにわか清輔オタクから、清輔オタクくらいには昇格できたと思います。そして、それが卒業論文を書いて良かったことだと思います。研究することがなければ、ただ何となく好きというレベルで終わっていたものが、きちんと形に残し論文という形式で文字化することによって、今まで知らなかったことを知り、説得力をもって人に伝えることができるようになりました。上っ面の知識教養ではなく、学術的に清輔を語れるようになりました。もちろん、私は研究者ではありませんので、取りこぼしはたくさんあるでしょうし、間違った部分も多々あるかと思います。それでも、かつての自分よりは薄皮一枚くらいむけたはずです。そして清輔という人物に少しだけ光を当てられた気がします。

 現に、ゼミの中でも研究テーマを通して交流を持つことができたように思います。私も他の学生の研究テーマから新しい知識を得て、きっとこのまま生きていたら知る由もなかっただろうということをたくさん吸収できました。卒業論文を書く作業は一見、研究対象と自分が向き合うだけの狭い世界かと思われますが、人とのコミュニケーションを図ることに繋がると思います。4年生の11月〜12月ともなると、「卒論ヤバいよ」が「Hello! How are you?」くらいの意味をなし、お互い情報交換をし合い、意見を言い合い論文を仕上げていく様は、まさに某少年漫画誌風の「努力・友情・勝利」といったところです。

 長々と綴りましたが、卒業論文を書くのは決して無駄なことではありません。卒業論文とどのように向き合うのか、その人自身の取り組み方や態度に左右されるところはあると思いますが、自分の大学生活のすべてを注ぎ込む価値はあります。だからこそ、忌み嫌わないで書いてみて欲しいと思います。

学生の感想をアップしました

 先日の学術交流シンポジウム「イプセンの女たち―その現代的形象―」の学生の感想その他を日本文学科・日本文学専攻facebookページにアップいたしましたので、ご関心の向きは是非ご一読下さい。よろしくお願い申し上げます。